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先日
うちの親父が胃癌で亡くなりました。
今年の春頃に体調不調から激烈に痩せ始めて
身内から
「病院へ行け」と言われながらも拒み続け
10月末頃に渋々病院へ行ったところ
すでに処置が不可能な状態だったようです。
親父は
親兄弟も癌で亡くしているので
自分の不調を感じたとき
覚悟は出来ていたのか
病院で言われた結果も家族には黙っていたようです。
通院を始めて
自宅で抗がん剤を飲んで一時的に症状が改善したらしいんだけど
11月の末頃
著しい体力低下で
いよいよ自宅での生活が厳しくなり
病院へ行く際 母親から
「お父さんを病院へ乗せていってくれないか」
と電話があって
1ヶ月ぶりほどに実家へ行ってみたところ
あまりにも弱り切って
杖をついて歩く親父を見て
「おいおい大丈夫かよ・・頑固ジジイがずいぶん弱ったな・・」
と、驚いたんだけど
こんな状態でも
自分でクルマを運転して病院へ行こうと思っていたらしい。
VOXYじゃ床が高くて上がりにくいと思って
ラシーンで迎えに行ったんだけど
後部席から
運転する私と助手席の母親を見渡しながら
「ラシーンか へえ・・良いじゃねえか。」とつぶやいていた。
親父は昭和7年生まれ。
子供の頃は
奉公に出されたり苦労した話は聞かされたけど
青年時代は
マラソン好きのスポーツマンだったことくらいしか聞いた記憶が無い。
私が生まれた昭和39年に
日産自動車村山工場に入社し
定年まで
塗装課の職人として勤めてきました。
スカイラインが好きで
S50やジャパンに乗っていたのを憶えている。
スカイラインが大型化した後は
U12ブルーバード、マーチ、と乗り継いで最後がノートでした。
貧乏が染みついている昭和一桁で
なんでも人任せにすることを嫌い
よく、クルマいじりをしていたのを見ていた。
だから
私が工業高校から機械設計の技術職に就いて
風変わりなクルマ屋になったのは
親父の影響が大きいんだと思います。
反面
凄まじいわがままで
大酒飲みで酒乱でヘビースモーカーで
家族は苦労させられたので
反面教師になった部分も多々ありました。
見習う部分もあるけど
絶対こうなっちゃダメだな・・と思う部分も多かったです。
昔は大のプロレスファンで
私の名前「光浩」は
力道山の名前を付けたそうだ。
強い男になって欲しかったそうだけど、
強くはならなかったな。
結局
これ以上の自宅治療は無理と言うことで
翌日入院と言うことになり
再びラシーンで病院へ送ることになりました。
親父が入院したのは
日産村山工場跡地に出来た大きな病院です。
入院した際
母親とともに担当医に状態を聞いてみると
「スキルス性の胃癌で末期状態です
ご主人には伝えたつもりですけど」
くらいの事を言われて
こちらは愕然・・
親父のことだから
身動きできるうちは
入院せずギリギリまで家で過ごしたかったんだろうと思う。
1週間程度で容態が大きく変わる可能性が高く、
年内はもたないだろう・・と
突然宣告されて
母親がガックリ来ちゃいました。
入院後
母親は毎日見舞いと世話に通い
私も母親の送迎をかねて頻繁に病室を訪ねて様子を見ていました
入院して安心したのか
急速に体力は落ちて
日によって話すことも論点がずれたりして
「昨日は六道山を歩いてきたんだ・・」とかおかしな事を言い出したり
幽体離脱でもしてるんじゃねえのか?と思ったけど
目の光がしっかりしている時は
命令口調で
ベッドの向きを変えろとか 枕を腰の下に入れろとか
いつもの親父になっていた。
12月3日は親父の誕生日
病室で迎える79歳の祝いに
うちの長女と次女を連れて見舞いに行ったりした
親父が入院していたのは
3階の北側の窓側で
窓からは幼少期から過ごした武蔵村山市が見渡せる。
かつて働いていた
日産村山工場の跡地から
生まれ育った街を眺めて何を思ったのか・・
末期のガンといえば
苦痛を伴う話しを良く聞くけれど
親父は入院後も
苦しそうな素振りは全く見せず
普通なら点滴だけでの養生になるところ
お粥は不味いから米の飯にしてくれとか
ヨーグルトなら食えるとか
相変わらずワガママで
看護師に風呂に入れてもらったりしてご機嫌な日もあって
ホントに末期ガンなのかな・・
正月には家に帰ってくるんじゃないかな・・
と思わせるくらいだったけど
確実に体調は悪化していたようです。
ある日
母親と病室を訪ねると
看護婦が
「豊泉さんが 部屋でタバコを吸っていたんですけど!」と
呆れ顔で
ビニール袋に入ったタバコやライターを差し出しつつ
何故病人がこんな物を持っている?という感じで我々も怒られた。
肺に水が貯まる症状も出ている末期ガンの患者が
鼻に酸素チューブを入れた状態で
病室のベッドでタバコに火を付けて吸うなんて
正気の沙汰とは思えないけど
いやぁ・・さすがうちの親父だ・・と、感心してしまった。
親父にとっては
最後の一服だったんだろう。
動脈瘤の手術の後もタバコをやめられなかった親父だから。
それにしても
ガン患者の喫煙なんて武蔵村山病院に伝説を残してしまったろう。
火事にでもならなくて良かった・・
快適な病室で
あまりにも普通に過ごしているから
医者に
ナニか、苦痛をなくすクスリでも使っているのか?
と、聞いてみても
いや、そういった物は使っていないけれど
幸いにして苦痛は無いようです。
とのこと。
これが何より幸いなことだった。
この病院は北の門から200メートルくらいだけど
日産があったら何だったのかな・・
「組立てかな・・ 塗装課はもっと奥だ・・」
数日前まで
そんな会話が出来ていたけど
先週金曜に
病院から電話があって
「容態が悪化したのですぐに来て欲しい」とのことで
だって
昨日は普通に話をしていたのに・・と思いつつ
母親と駆けつけてみると
すでに意識は無く昏睡状態。
夕方になって
意識は戻らないけど容態は安定してきたので
母親を家に帰して
私と弟が病室に泊まり込むことにする。
翌朝
一度帰宅していたところ
交代で病室に残した下の弟から再び容態悪化の知らせがあり
慌てて病院へ戻ったところ
家族5人が揃って10分少々で
親父は眠ったまま息を引き取りました。
母親が涙を流しながら
「お疲れ様 ごくろうだったね」と声をかけるのを見て
ああ、親父はいい人生だったんだろうな・・
と思いました。
ワガママで家族は苦労したけど
くそ真面目で小ずるい事をせず
とりあえず家族を飢えさせるようなこともせず
不器用に生きてきた親父でした。
生前から
俺が死んだから日産の互助会に電話しろと言われていたので
互助会経由で葬儀屋に連絡し
葬儀屋の車で親父は病院から自宅に戻ってきました。
長男の私が喪主と言うことで
いろいろな手続きと親戚の対応でここ数日はホントに疲れた。
遺影に使う写真を探そうと
家族にも触らせなかった親父の荷物置き場を漁ってみると
日産労連のカラオケ同好会での写真が大量に出てきた。
カラオケが好きだったのは知っていたけど
歌っている写真と
仲間と飲んでいる写真ばかりが膨大にある。
家族が見たことも無いような
仲間と笑う写真の中の親父の顔。
なんだ・・定年後もけっこう楽しくやっていたんじゃないか・・
と思うと
我々もだいぶ気が楽になった。
昨年 旧友の死を知ったときも思ったけど、
人間
いつかは死ぬんだけど
動けるうちは出来るだけ健康で楽しんでいたいとものだ。
その点
うちの親父は
亡くなる前の月まで仲間と会い クルマを乗り回し
懐かしい日産村山工場の跡地で
苦しむことも無く快適に最後を過ごせたんだから
恵まれた人生のラストステージだったんだろうと思う。
今は
もしかして
全てが親父の計画通りだったんじゃないだろうか・・とさえ思う。
親父の葬儀は今週末の土日
家族にはぶっきらぼうな親父だったし
親孝行らしいことはあまりした覚えが無いから
できるだけ良い葬儀にしてやりたいと思う。
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